町の形成
銀山の町並みは戦国期に仙の山を中心に集落が発生し、
銀山開発と共に谷に沿って広がり銀山川筋にまで至るようになりました。
幕府直轄地となり、大久保長安が初代奉行を勤めた。
慶長18年(1613年)までは山吹城の麓に代官屋敷を置き、
その周辺に商家などの町ができていたことが地名などから推測できます。
二代奉行竹村丹後守が代官所を現位置に移転し意図的に銀山町「山内」大森町を政治、
経済の町として区分し周囲に元締め屋敷、向陣屋、仲間長屋、十歩番所を配して、
その外側にはご用商人宅や銀山御料六組の公事宿である郷宿を置きました。
これらを含む町並みの北部分は計画的な町で、既に出来ていた駒の足の
町並みとの間に武家商家などが混在して町並みの全体が形成された様です。
この頃の銀山町「山内」は柵で囲まれ、境には番所を置いて採掘に関わる
人々の家並みが続き鉱山集落としての色彩を濃くしていました。
しかし大正期に休山に至ると銀山町は急速に衰えてゆき、現在に至りました。
寛政12年(1800年)大森町はその三分の二を失う大火にみまわれ、
武家、町家、社寺など317軒が焼失しました。
大火直後代官所は藁葺きを禁じ、板葺き、瓦葺にすることを命じた蝕書を出し、
代官所の隣に現在も残る火除地を確保するなどの対策をとりました。